こんにちは、美容室ウプスいすです。
父の葬儀から1週間がたって、ようやく日常が戻って来た今日この頃。
葬儀の折には、予約の変更やキャンセルなどお客様にはご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。
皆様のおかげを持ちまして、滞りなくすべての行事を行う事が出来ました。
本当にありがとうございました!
親はいつかはいなくなってしまう・・・
そう頭では理解していても、いざその時にならないと現実がわからいもので、今改めて父親の存在って思っていたより大きなものだったと思う日々です。
父は、大正11年8月生まれの享年97歳という大往生の人生でした。
子供は、自分を含めて男が三人の女が一人。
孫は全部で7人で、ひ孫が9人と全員揃うとそれは賑やかな大家族に育ちました。
父は、子供の頃から頭が良かったそうで、今でいう「小松高校」を卒業した頭脳の持ち主で計算をするのが得意でした。
チラシの裏に鉛筆で数字を書いては、仕事上の計算をしているのを良く覚えています。
子育ては、大正生まれのバリバリの頑固おやじなので相当厳しく子供には接していたそうです。
特に、長男と長女の2人はいつも怒られていたそうで、長男は良く父親に叩かれていたらしく今でも忘れないそう。
自分はと言うと、両親が高齢出産で生まれた末っ子だったので、親から怒られた記憶があまりないんです。
たいてい自分の意見は通る感じで、昔の厳しさを知っている兄や姉からは待遇が違い過ぎると良く怒られたもんです笑
凄く子煩悩で、家族思いの父親で黙々と働いて全部家族に還元してくれる、そんな父親でした。
そんな父も、95歳ぐらいからだんだんと足腰も弱り昨年からは、ショートステイやロングステイを繰り返していた日々。
次第に筋力も衰えて、呑み込みが思う様に出来なくて「誤嚥性肺炎」で入退院を繰り返す様に。
そして、今年の1月からは全く食事が出来なくなってしまい、点滴のみで命をつなぐ様になり、とうとう2月20日の午後1時30分に永眠してしまいました。
父が入院していた病院がウプスから近い所だったので、1日置きぐらいに見舞っていました。
亡くなる前の日の夜も、女先生と2人で病室に行き孫の動画を見せて元気づけていました。
1月20日の午後1時10分ごろ。
容態の変化を知らせる電話が兄の元にありました。
そして兄から、営業中の自分に連絡があって車で病院へすっ飛んでいきました。
たぶん、ウプスから病院まで車で3分。
車を降りて病室まで急いで行ったのですが、その時にはもうすでに父の息はなく「たった今息をひきとりました」という看護師さんの言葉が。
「あーいってしまったか・・・」と別れの時が突然やって来た現実が、目の前に広がっていました。
兄たちも当然まだいなくて、父と2人病室で向き合っていたその時、自分の携帯電話がけたたましく鳴り響きました。
しかもその電話の音は、フェイスタイムというアイホーンにあるテレビ電話のコール音。
たった今、父が旅立ったまさにその時。
ジャストなタイミングでテレビ電話をかけてくるのは、「あいつしかいない」と思って出てみると案の定、満面の笑みをたたえた長女とこれまた「ブヒブヒ」言っている元気な孫のとうかさんでした笑
長女が大きな声で、「おやじかーーー、じぃどうや??笑」、「おやじ、どこにおれん?」
自分:「どこにおれんて、〇〇病院や」。「じぃ、見に来たんや」。
長女:「じぃ、どうなん?」「元気しとるか??」。
自分:「どうもこうも、じぃ、しんでもうたわい」。
長女:「なに、言っとれん笑」「はぁぁぁーーー」。
こんなちぐはぐなテレビ電話の会話があって、本来ならしんみりするであろう病室が、おかげで賑やかな空間に早変わりしました笑
さすがにナイスな長女と孫のとうかさんでした笑
じぃちゃんも笑いながら、あの世に行ったことでしょう。えぇ笑。
派手で賑やかな事が大好きだった父。
97歳で人生を終えた父の葬儀にふさわしく、たくさんの親族や親戚に見送られながら旅立っていきました。
家族思いで子供思いだった父の背中を追いかけて、追いつけ追い越せで自分も頑張っていこうと思います。
さぁー、やっぞ!!